AoiMoeのおはなし

アイカツロス症候群のリハビリ活動二次創作

氷上スミレと大きな椅子

氷上スミレと大きな椅子

次は私が話す番ね。……じゃあ、こんなお話はどうかな。

あかりちゃん、ひなきちゃん……二人は覚えているかな。私たちがスターライト学園に入学したてのころ、この寮の大浴場の休憩室に、大きくて立派な椅子があったことを。……うん、そうね、あの年の秋になる頃にはもう無くなっていたから、珠璃ちゃんや、凛ちゃん、まどかちゃんは見たことがないはずよね。……うふふ、凛ちゃん、まだ何も話してないんだから、そんなに怖がらなくても。

……これから話すのは、とある先輩から聞いた、その椅子にまつわるお話。これが最近の話なのか、それとも、ずっと昔の話なのか、それは私にも分からない。でも、その先輩が言うには、これはどうやら本当にあった話みたい。

ある年の春、このスターライト学園中等部に、一人の女の子が入学してきたの。その子は、あまり人づきあいが得意じゃなかったみたいで、この学園に入ってからも、しばらく周囲とは馴染めずに、一人でいることが多かったみたい。レッスンはほとんど一人で受けていたし、土曜日日曜日はもっぱら、図書館で本に囲まれて過ごす日々だった。まだ駆け出しの新人アイドルだったから、週末に仕事が入ることもほとんどなかったしね。

……その日も、彼女は一人で図書館に行って、一日中いろいろな本を読んで過ごしていたのだけれども、日が沈んで薄暗くなり始めたころ、読み終わった本を本棚に戻していると、ふと、開架書庫の隅の方の奥まったところにある本棚の、さらにその一番奥の一番下の段の……つまり、いちばん人目につかないところに仕舞われた、一冊の分厚い本に目が止まったの。その本は、表面が牛皮のような素材で覆われていて、背表紙には金箔で押した文字がきらめく立派なものだった。彼女は、そういう少しアンティークな雰囲気の物が好きだったので、迷わずその本を棚から抜き取り、手に取った。表紙を見ると、背表紙と同じように金箔で立派な装飾がされていたので、彼女は期待に胸を膨らませて表紙を開いたの。……でも、そこに本来あるはずのページは無く、代わりにあったのは、四角くくり抜かれた空洞と、そしてそこに収められた、奇妙に先っぽが枝分かれしている……一本の鍵。そう、その立派な本に見えた物は、本に偽装された小物入れだったわけ。

鍵を手に取って、こう、くるくると回して、いろいろな角度から眺めてみる……。誰がどんな理由で、こんな小物入れを用意して、その中にこの鍵を入れて、図書館のこんな目立たないところに置いたのかは、彼女にも分からなかった。……でも、鍵を回して眺めているうちに、この鍵の奇妙な先端の形状について、ちょっとした心当たりがあることに気付いたの。だから、その心当たりが正しいのかどうかを確かめるため、彼女は鍵を懐に入れて、空になった本を元の場所に戻してから、閉館時刻間近の図書館を後にした。

その日の夜、みんなが寝静まったころ、彼女は一人、部屋を抜け出した。……彼女にはルームメイトが居なかったから、夜遅くでも気兼ねなく部屋を出ることができたの。そして向かったのは……大浴場の休憩室。中に誰もいないのを確かめると、彼女は休憩室に入り込み、例の大きな椅子のところまでやってきた。

あの椅子は、一人掛けのソファーのような形をしたもので、少々くたびれてはいたものの、表面は全面にモケット生地が張られていて、座面はフカフカして非常に座り心地が良かったし、分厚い背もたれとがっしりとしたひじ掛けが備わった、非常に大きくて立派なものだったけれど、学園の寮の、それも大浴場の休憩室に置くには、ちょっと場違いな雰囲気のものだったわね。私が聞いたところによると、あの椅子は、もともと四脚一組で、学園長室で応接に使われていたものだったのだけれども、他の三脚が壊れてしまい、残った一脚だけ、捨てるのも忍びないということで、紆余曲折あって休憩室に置かれることになったらしい。

彼女は、その立派な椅子の背後に回りこんで、しゃがみこんだ。椅子の背もたれの後ろ側に張られた板の下の方に目を向けると、そこには奇妙な形をした溝が彫られている。さっき図書館で鍵を見つけた時、その鍵の先端の奇妙な形と、この椅子の裏に彫られた溝の奇妙な形とが附合していることに、彼女は気づいたの。……彼女はいつもリボンを髪に結んでいたのだけれども、ある時、お風呂から上がって休憩室で一息ついた後、この椅子に座ってリボンを結ぼうとしたところ、扇風機の風に飛ばされて、そのリボンが椅子の後ろに落ちてしまったことがあったの。リボンを拾い上げようと、椅子の背後に回った時、偶然この溝を見つけて、その奇妙な形がずっと心の片隅に残っていたみたいね。

彼女は懐から先ほどの鍵を取り出すと、椅子の溝に差し込んだ。全く引っかかったりすることなく、スムーズに吸い込まれていく。そして、鍵の軸が一番奥にぶつかったところで時計回りに一回転させると、カチリという音がしてから、椅子の後ろの板が、すうっと観音開きの扉のように手前へと開き始めた。その開いたところから椅子の中を覗き込むと、そこは空洞になっていて、よく見ると、空洞の床には小さな座椅子のようなものが据え付けられており、少し窮屈な姿勢になるけれど、小柄な人ならそこに座れるような設えになっていた。試しにそこに座ってみると、横にはレバーのようなものがあって、これを前後に動かすと、中から背面の観音扉を開けたり閉めたりできるような仕掛けになっていたの。

……その時、休憩室の外から足音が近づいてきた。彼女は思わず観音扉を閉め、そのまま出るに出られず、しばらく椅子の中で息をひそめることにした。入ってきたのは二人組で、休憩室をそのまま通過して大浴場の脱衣場へと入っていった。休憩室に人の気配がなくなったことを確かめてから、彼女は椅子から這い出し、扉を閉め、元のように鍵を掛けた。そうして、脱衣場の方を窺うと、二人の会話が聞こえてきた。会話の内容から、どうやら、この二人は高等部でもトップの人気を誇っている先輩たちだというのが分かった。二人とも仕事で遅くなり、こんな時間にお風呂に入ることになったみたい。

二人に気付かれないよう、彼女はそのまま休憩室を後にしようと出口の方へ向かって歩きだしたのだけれども、二三歩進んだところで立ち止まり、何を思ったのか、再び椅子の裏へ回り込むと、鍵を開けて、もう一度椅子の中へ忍び込んだの。どういう心境でそんなことをしようと考えたのか、彼女自身もよく分からなかったようなのだけれど、本人の感覚としては、何か良くわからない魔力のようなものに引き寄せられて、いつの間にか椅子の中に吸い込まれていた……というのが正しいみたい。

20分くらい椅子の中で息をひそめていると、先ほどの二人がお風呂から上がり、休憩室にやってきた。他愛もない、でも、仲のよさそうな会話をしながら近づいてきて、そのうちの一人が、彼女の潜んでいるあの椅子に腰かけたの。あの椅子は、人が座ると座面や背もたれが絶妙に沈み込むようになっていて、それが座り心地の良さの秘密だったのだけれども、一方でそれは、中に入った人からは、椅子に座った人間の重みが程よく感じられるように考えられた作りでもあったみたい。まだアイドルとして駆け出しの彼女にとっては、この二人は、まさに雲の上の存在だったのだけれども、そんな、普段なら話すこともままならないような先輩アイドルの重さやぬくもり、体の柔らかさ、しなやかさ、そして、声の振動が、座面のモケットを通して自分に直接伝わってくる……その感触が、彼女に何とも言えない快楽をもたらしたわ。

そうして、その夜の経験が癖になってしまい、彼女は、この大きな椅子の中に潜んでは、誰かが椅子に座るのを待つのが日課のようになってしまったの。最初のうちは、狭い椅子の中にずっといると体がしびれてしまい、外に出るとしばらく動けなくなっていたから、あまり長い間入っていることができなかったのだけれども、そのうち体の方が柔らかくなって、椅子の中に何時間でもいられるようになった。そうして毎日毎日、いろんな人が自分の上に座るのを、彼女はまさに身をもって体感しつづけたの。ある時は、モデルとして有名な先輩のスリムな体つきに感心し、またある時は、彼女がまだ学園に入る前に家族と一緒に見ていたドラマの主役を演じている先輩の生の声を間近で聞くことができて感激したり……。あの椅子の中に入りさえすれば、布一枚を隔てて、憧れのあの先輩やこの先輩と密着することができるという愉悦。彼女は、人づきあいは苦手だったけれど、別に他人が嫌いというわけではなかったので、人恋しさをそれによって紛らわせていたという側面もあったのね。

もう一つ、彼女が楽しみにしていたのは……そこで行われる会話を聞くことだったの。まさか、椅子の中に人が入っているなんて誰も思っていないから、他に誰もいないと思って、普段親しい人にしか見せないような姿を見せる生徒たちも当然いたわけ。テレビでは男勝りでクールなイメージの先輩が、仲良しの友達と一緒にいるときには可愛らしい女の子のような側面を見せたりとか、人には言えない意外な趣味を持っている先輩がいたりとか……。あと、スターライト学園は女子校だから、その……女の子どうしで恋人になっちゃう人たちもいて、半ば公然のカップルもいれば、中には意外なカップルがいたりとか……。彼女は椅子の中から、自分の知らないような新しい世界への見聞を広めていったわ。

そうやって、いろんな人に椅子ごしに腰かけられていた彼女だったのだけれども、そんな中で、ある一人の女の子のことが気になりだしたの。その女の子は、彼女と同じ学年の生徒だったのだけれども、クラスが違ったので面識はなかった。でも、毎日ほとんど同じ時刻にやってきて、同じようにあの椅子に座るので、彼女は次第に、その女の子に奇妙な親近感を抱くようになっていったの。

そうして三ヶ月くらいが過ぎたころ、彼女が椅子の中で待っていると、いつものようにその女の子がやってきて椅子に座ったのだけれども、どうも元気がない様子だったの。……もうそれくらいの期間、こういう奇妙な関係を続けていると、上に座っただけで、今日は機嫌がいいみたいだとか、今日は落ち込んでいるみたいだとか、彼女にはそういうことが手に取るように分かるようになっていたの。女の子は大きなため息をついて、ただ一言、つぶやいた。

――どうして私、こんなに頑張っているのに、ダンスも歌も全然うまくならないんだろう……

ってね。この学園の初年度の生徒にありがちな壁にぶつかっていたみたい。でも、椅子の中の彼女には分かっていたの。きっと、女の子はその壁を乗り越えられる……って。毎日毎日、椅子の中からこの女の体の感触を確かめていたので、最初の頃は華奢な体つきをしていた女の子が、この三ヶ月間で少しずつ、でも着実に訓練を重ねていたおかげで、だんだんと体が出来上がっていっていることを、本人よりも椅子の中の彼女の方が良く分かっていた。その時、彼女は、いっそ椅子から飛び出して行って、女の子を抱きしめて励ましてあげたい、とすら思ったのだけれども、それは思いとどまって、ただ愛おしさを胸に押しとどめて耐えることにしたの。……はたして数日後、今度は上機嫌になった女の子がやってきたので、椅子の中の彼女にもそれが伝わって、まるで自分のことのように喜んだわ。

さて、そうなると、彼女には何というか、少し、欲のようなものが出てきてしまったの。こんな椅子の中からではなくて、その女の子と、外の世界で仲良くなれないかな……ってね。でも、最初にも言ったとおり、彼女は人づきあいが苦手だったから、どうすれば仲良くなれるのか分からなかったの。だから、彼女はとりあえず、その女の子のことをずっと観察することにしたの。あの椅子の中はもちろんのこと、床下や、天井裏から……。ずっと椅子の中で過ごしているうちに体が柔らかくなったので、彼女はまるで猫のように、建物の狭い隙間でも入り込めるようになっていたの。……え?そんなことできるのかですって?この寮は、クローゼットの中の天井が外れるようになっていて、桟と桟の間の狭い隙間を抜けられれば、天井裏に上がれるのよ。知らなかった?……ひょっとしたら、今もそこの天井に誰かが……ふふ、冗談よ。点検用にそうなっているだけなので、普通なら、頭を入れて覗くのがやっとの隙間なのだけれども、彼女は、そこを抜けられるようになっていたの。

でも……ある夜のこと。彼女は、いつものように天井裏に潜って、その女の子が眠るのを見守ってから自分の部屋へと戻ろうとしたのだけれども、その時、足の置き場を間違えて、屋根裏に通っていた雨どいのパイプを踏み抜いてしまったの。……それ自体は大したことではなかったのだけれども、物事というのは、こういう小さなところからケチがついていく物なのかもしれない。彼女は、何か縁起が悪いような、嫌な予感がしたみたい。

次の日、その予感は的中することになる……。いつものように彼女は大浴場の休憩室に入ったのだけれども、そこでは異変が起きていたの。いつもそこに置いてあった、あの大きな椅子が、休憩室のどこを見回しても見当たらない……。代わりに置かれていたのは、真新しくて、シンプルで……はっきり言ってしまうと、少し味気ない……ソファーとテーブルだった。そう、現在あの休憩室に置かれている物よ。……彼女はその変わり果てた休憩室の様子を見て、あの大きな椅子に何が起こったのか悟ったの。今頃は多分、ごみ処理場で変わり果てた姿になっている……。そのまま、何分か、何十分か分からないけれど、茫然とそこで立ち尽くしていたみたい。そして、休憩室に数人の生徒がおしゃべりをしながら近づいてくる気配を感じたところで我に返って、そのまま自分の部屋に戻ったの。

それからの彼女は、しばらく何をやっても上の空で、死んだように腑抜けてしまったの。彼女としては、もはや、あの椅子の中でたくさんのアイドルと触れ合って過ごす時間が、何物にも代えがたい大切なものとなっていたのね。そして……あの女の子との縁も、何故だかこれで切れてしまったような気がしていたみたい。

……はい、私のお話は、これでおしまい。……あれ、みんな、何か腑に落ちない、っていうような顔をしているわね。そう、このお話にはオチがないの。あの大きな椅子に、誰がどんな目的でそんな細工をしたのかも、その椅子の鍵を、誰がどんな目的で図書室に隠しておいたのかも、この話を教えてくれた先輩は教えてくれなかったの。……というよりも、その先輩も知らなかった様子だったのだけれど。でも、よく考えてみて欲しいのだけれども……私たちがずっと使っている椅子の中に、もしも、人が入っていたら……そう考えたら、それだけで怖くなって来ない?

……そうそう、一つだけ話し忘れていたことがあったわ。この後、彼女がどうなったのかというと……不思議なことに、一週間くらい経ったころ、どういう訳だか、例の女の子とルームメイトになっていたの。……本当に不思議なこともあるものよね。人の縁って、不思議。

やっぱり、みんな腑に落ちないって顔をしているわね。……あら?まどかちゃん、どうしたの?あなただけ顔が真っ青だけど……。

まどかちゃん、大丈夫よ。何も怖がることなんてないわ。

これは、ただのお話なんだから……。ね?

星宮いちごはお風呂場でおしっこする派だと思う

注意

この話には、お食事中に読むのはちょーっと憚られるような尾籠な表現が含まれていますが、性的な表現はないので健全だよ!お子様にも安心!

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星宮いちごの一日背後霊になった話

星宮いちごの一日背後霊になった話

私……霧矢あおい、18歳。アイドル。

いま、私の眼下5mほどのところにある床には、警官の制服を着た一人の女性が倒れている。……その女性も、私……霧矢あおい、18歳。アイドル。

……どうしてこうなった……。

2

話は少し前に遡る。今日は、私の女優としての代表作にして4年続いている人気シリーズ、≪イケナイ警視総監≫の8作目、その撮影最終日。そして、この日の大トリ、大雨の中、敵の黒幕を倉庫に追い詰め、一対一で対決するシーンの撮影を一発で終わらせて、無事クランクアップしたのは良かったのだけれども、そこで気を抜いたのが悪かった。

雨のシーンの撮影のために大量に撒かれた水

床に敷かれた大道具の鉄板

……足元がそんな滑りやすい状態であることに気付かず、ふと、敵の黒幕役として出演していただいた大御所の俳優さんに挨拶をしようと思って振り向いた瞬間、靴の裏が地を離れ、目の前の風景が傾きだし、体が宙に浮く感覚。いけないっ……そう思って受け身を取ろうとしたけど間に合わず、そのまま左の側頭部を床に打ちつけてしまった……ようだった。その瞬間のことは何も覚えていない。

そして、次の刹那……。気が付くと、私の意識は空中に浮いており、下を見たら、自分の体が、水浸しの鉄板の上に倒れていた……というわけ。

人間、こんな状況になっても……いや、こんな突拍子もない状況だからかもしれないけれど、意外と冷静に、

「ああそっか、私、死んじゃったんだ……。死ぬとこんな風になるなんて思ってもみなかったけど、全然、痛くも苦しくもなかったのは不幸中の幸いね。……それにしても、アクションシーンの撮影中ならいざしらず、撮影の後で気を抜いて転んで死ぬなんて、ああ情けなや、霧矢あおい……」

などと状況分析やダメ出しをしたりなんかして、眼下の状況を見守っていた。……まあ、このお仕事を始めてから、撮影中に万一のことがあれば最悪死ぬこともあるかもしれない、という意識を持って、日々、撮影に挑んでいたから、いざこんな風になっても冷静でいられるのかもしれない。いずれにしろ、死んでからジタバタしても、もう、どうにもならないしね。

ふと、宙に浮かんでいる自分が、いま、どんな状態なのか、気になって見回してみる。まるで、下で倒れている私とは別に、もう一人の私が宙に浮いているような感じで、ちゃんと体があり、そう思って意識してみれば、視界には、いつものように鼻の頭やまつ毛、そして垂れ下がった前髪なんかが見切れている。ただし、全体的に半透明だけど。……要するに、今の私は、世間一般の人々がイメージするような≪幽体≫の姿になっているようだった。なんて安直な。……あ、裸じゃなくて、ちゃんと服は着てるからね。でも、不思議なことに、着ているのは衣装でも普段着でもなく、スターライト学園の制服だった。もう卒業してしばらく経つのにね。

さてそうなると、この状態の私に一体何ができるのか、俄然興味が湧いてきた。まずは移動してみよう。

すいーーーー

……どうやら、この体は、移動したいと思うだけで思い通りの方向に移動できるみたい。これは便利。試しに、あたふたしているスタッフさんたちの目の前に降りてみたけれど、彼らには幽体の私の存在は見えていないみたい。まあ、これは想定内。

次に、スタジオの壁や小道具なんかに触ってみようとしたけれど、スルっとすり抜けてしまう。つまり、物には触れないらしい。それどころか、天井をすり抜けて、外に出ることすらできた。これは穏やかじゃないわね。やけに赤く美しい夕焼けの空。ひょっとして、このまま登っていけば月に行けたり、あるいは、何億光年も彼方の星にも行けるのかな、と思ったけど、何か嫌な予感がしたので、それを試すのはやめておいた。あっ、向こうの方からサイレンを鳴らしながら救急車が近づいてくる。ここまで6分30秒。結構早い。

スタジオに入ってきた救急隊員は、私の名前をしきりに呼んだり、呼吸と脈の確認をした後、首にサポーターのようなものをはめ、担架に乗せて私を運び出した。

幽体の私も一緒に救急車まで付いて行って、中を覗いてみる。そういえば、救急車の中をじっくり見るのはこれが初めてよね。床下からは、エンジン音ともちょっと違うような、何か唸るような低い音が響いてきて、前の方からは、無線だか携帯電話だかで受け入れ先の病院を探す隊員の声が聞こえてくる。右側面の天井近くにはいろいろな機械が取り付けてあり、その下には私の体を横たえている担架が置かれている。左側面には、横向きにベンチのようなものが付いていて、付き添いのために乗り込んだ番組プロデューサーさんが座っている。……程なくして、私を乗せた救急車はサイレンを鳴らし始め、スタジオのある港湾地帯から、夕日に赤く染まる街の方へと向けて走り出した。

しばらくして着いたのは大きな病院だった。えーと、光石記念病院というらしい。救急搬入口と直結した診療室に運び込まれ、処置台に乗せられる。お医者さんは、私に名前を聞こうと呼び掛けている。私(体)がその呼び掛けに応答しないので、代わりに私(幽体)が頭上から

「霧矢あおいでーす」

と言ってみたけど、当然聞こえないようだった。次にお医者さんは、私のまぶたを開けてペンライトの光を当てたり、胸の真ん中にこぶしを押し付けたりして、体の反応を確認しているようだった。穏やかな顔してるだろ、それ、死んでるんだぜ……なんてね。

次に、私のトレードマーク、髪の毛を止めているシュシュを外される。お医者さんは左の側頭部の状態を確認しているようだ。髪の毛が少し泥で汚れているものの、盛大に頭を打った割には、目立った外傷はないみたい。でも、私がこういう状態になっているからには、体には相応のダメージがあるのだと思う。

この後は、なんというか、いろいろ処置をされた。……うん、いろいろ。女優としての私は、お医者さんたちや看護師さんたちの動きの一つ一つが参考になるなあ、と、興味津々で眺めていたのだけれども、一方で、意識のない私の体に対して、見ず知らずの人々がいろいろなことをしているのを、意識清明な私自身が上から眺めているのは、それはそれは全くもって心中穏やかじゃない気分。ただ、メスで皮膚を切ったりとか、頭に穴を開けたりとか、そういう手術らしい手術は全くされなかったのが、ちょっと意外だったし、ちょっとだけ安心した。

3

 さて、一通り処置や検査が終わって、ストレッチャーで病室に運ばれた。もう外はとっぷりと日が暮れてしまっている。物々しい集中治療室みたいなところに運ばれることを想像していたのだけれども、そんなことはなく、割と普通の個室っぽかった。ピコピコと心拍数や呼吸数を表示しているディスプレイをぼーっと眺めていたら、ふと突然、間抜けなことに、やっと今ごろになって、実は、私はまだ死んでないみたいだ、ということに気が付いた。

改めて私の様子を確認すると、病衣を着せられた私の腕からは点滴の管が伸び、体のいろいろなところに電極が付けられているが、人工呼吸器のようなものは付けられていない。ただ、首にはサポーターのようなものが巻いてある。すうすうと静かに息をしているので、こうして見ていても、ただ寝てるだけのようにしか見えない。

程なくして、うちのパパとママが病室に入ってきた。二人の顔を見るのはスターライト学園の卒業式以来かな。ごめんね、久しぶりに会う娘がこんな姿で。二人とも悲痛な表情で私の顔を見つつ、手を握ったりしている。

それからしばらくしてやってきたのは、いちごと蘭だった。

「あおい……」

そう呟いてベッドの脇に座り込んだいちごは、ぽろぽろと涙を流し始めた。そんないちごの肩を抱きかかえる蘭。

……そうよね、だって、今日の朝、いつものように三人で朝ご飯を食べながら、今日はみんな何時くらいに帰ってくるの、とか、夕ご飯は何にしようか、とか、何気ない会話をしてから、

「じゃあ、また後でね」

って言って、それぞれの仕事場へと出かけて行ったのに、それから大して時間も経っていないうちに、そのうちの一人が、こうして病院のベッドに意識不明で横たわっているんだから、それはそれはショックよね。……当の本人は、こうして至って冷静にそれを眺めているのが変な感じなのだけれども。

ごめんね、いちご、蘭……。

今日は、パパとママが泊まり込んでくれるらしい。しばらくして、いちごと蘭は、私たちの住んでいるマンションへと帰って行った。

4

 翌日。相変わらず私の意識は外に出たままで、本体に戻る気配はない。……夜のうちに体に重なってみたりしたけれど、何ら効果はなく、ただ、この幽体が、私の本体を虚しくすり抜けるだけだった。これは一体どうしたことだろう。

早朝に病院の外を飛び回ってみたら、沿道には各テレビ局の中継車が並び、取材の人々が群を成していた。予想できたこととはいえ、結構な大ごとになってしまった。改めて、自分の置かれている立場というものを思い知らされた感じがした。

それからしばらくして、いちごと蘭がやってきた。まだ面会時刻ではないが、病院の特別な計らいで病室に入れてくれたようだ。蘭は髪の毛を後ろで纏めてラフな格好なのに対して、いちごは普段通りの格好をしている。確か、蘭は今日一日オフだったはずだ。一方、いちごは一日中仕事がある。

「……というわけで、すぐ近くにホテルが用意してありますし、今日の日中は、あたしがあおいの様子を見ていますから、お二人はそちらで休んでいてください」

というような話を、蘭と私の両親がしている間も、いちごはベッド脇に座り込んで、ずっと私の手を握って離さず、じっと私の顔を見ていた。いちご、昨日はちゃんと寝られなかったみたい。あまり顔色がよくなくて、よっぽどベッドで寝ている私の方が健康そうに見える。

「ところでいちご、時間は大丈夫か?」

「あっ……私、そろそろ仕事に行かなきゃ……。じゃあ、蘭、後はお願いしていいかな?」

「ああ、こっちは私に任せておけ。……大丈夫、あおいもすぐに目を覚ますさ」

「うん……。それじゃあ、私、これで失礼します」

両親に一礼した後、いちごはフラフラと病室の扉のところまで行き、振り返ってもう一度私の顔をじっと見つめた後、未練を断ち切るようにして出て行った。

うーん……。今は人のことよりも、まず自分の心配をしないといけない時ではあるものの、いちごのあの様子、すごく心配。私がここに残っていたからといって何ができるわけでもないし、付いて行っちゃおうかな。……私が付いて行ったからといって何ができるわけでもないけど。……ごめん、正直にいえば、こんな機会でもないと、なかなかいちごの仕事ぶりを見ることもできないし……という興味本位の気持ちもあることは否定できない。私自身、もういい加減、この病院という場所の無機質な雰囲気に気が滅入ってきそうだしね。

よし、私の体の方は蘭に預けることにして、私の意識の方はいちごに付いていくことにしよう。そう、さしずめ、星宮いちごの一日背後霊、といったところかしらね。

5

病室を出て、いちごを追いかけたら、エレベーターホールで追いついた。隣には病院の事務員らしき女性がいて、いちごの相手をしている。見ず知らずの人が相手とはいえ、あの、物怖じせず、誰にでも気軽に話しかけるいちごには珍しく、口数が少ない。

エレベーターがやってきた。二人が乗り込んだので、私もいちごの背後霊らしく、背中にくっついて乗り込む。事務員さんがエレベーターの操作盤にカギを挿して回すと、扉が閉まり、下へと動き出した。扉の上で点灯しているランプが、4……3……2……と順番に移っていって、一番左の1階が点灯したところで止まるのかと思いきや、そのまま止まらず、ランプにはない地下まで降りて行って、そこで扉が開いた。エレベーターを降りると、目の前は真っすぐな廊下になっていて、少し進むと守衛室のようなものがあった。いちごと事務員さんが守衛さんに軽く会釈して通り過ぎる。

「今日のお空はどんな空?大空お天気の時間です。今、TKYテレビの前は、曇り空……」

守衛室の中からはテレビの音声が聞こえてきたが、いちごはそれに全く反応することなく、そのままどんどん先へと進んでいった。

守衛室の先にある扉を開けると地下駐車場になっていて、そこには目立たない色のワゴン車が止まっていた。事務員さんに見送られながら、いちごは左側面のスライドドアを開け、後部座席の奥に座った。いちごが奥に座ったので、私は手前に陣取る。

「それじゃあお願いします」

いちごが運転席に声を掛けると、車は動き出した。地下を少し走った後、スロープを登っていく。登り切って外に出ると、そこは病院の隣にあるビルの裏口だった。一体ここはどんな病院なんだろう。

ワゴンはそのまま、街の中を快調に走り抜けてゆく。いちごはずっと窓の外を見たまま微動だにしない。どんな表情をしているのかは、こちら側からは分からない。私はいちごと並んで座っているつもりになっているのに、いちごはずっと反対の方を向いてこっちを見ようともしないので、まるで喧嘩でもしているような気まずさを感じてしまって、どうにも落ち着かない。……今の私は幽体だから、向こう側に回り込めばいちごの表情をみることもできるのだけれども、何となく、それをしてはいけないような気がした。

この期に及んで、軽い気持ちでいちごに付いてきてしまったことに対して、なんだか申し訳ない気がしてきた。≪親の死に目にも会えない≫……そんな言葉が脳裏に浮かんできた。私たちの生きている世界はそういうところなのだ。もし、私といちごの立場が逆だったら、と考えてみたら、私はすべてを投げ打って、いちごのそばに付いていたかもしれない。でも、そうしなかったいちごの気持ちも、私には痛いほどわかる。どちらを選ぶにしても、それは重くて辛い選択なのだ。

6

 最初にやってきたのは、イッポン放送。これからラジオ番組の収録だ。

いちごは通用口から中に入り、打ち合わせの行われる会議室の前まで歩いてきたところで立ち止まる。そこで下を向いて目をつむり、数秒間静止した後扉を開けた。

「おはようございまーす」

さすがに笑顔こそないものの、さっきまで青白かった顔は、その数秒間の静止の間に血の気を取り戻し、いつもの元気いっぱいの星宮いちごの姿が、そこにはあった。私は、そんないちごを見て、一瞬、背中の血の気が引いたような感覚を覚えてしまった。だいぶ前に一度、こんなアイドルの姿を見たことがある。私たちが中学二年生の夏……過労で倒れる直前の美月さんだ。

「あっ、いちごちゃん、おはよう。……聞いたよ、あおいちゃんのこと。ほんと、何て言ったらいいか……」

「はい……。でも、今もここに来る前にあおいの様子を見てきたんですけど、思ったより顔色も良かったし、きっと大丈夫です」

 スタッフさんとそんな会話を交わしながら、打ち合わせを始めた。

この日に収録されるのは、いちごが毎週レギュラーでメインパーソナリティを担当しているトーク番組で、いちごがゲストを招いて二週に亘っておしゃべりをするという体裁になっている。平たく言えば、ゲスト一人相手に二本録りというわけ。放送も少し先になるし、そういう番組の性質上、時事ネタは基本NGで、いちごも普段通りの振る舞いが求められる。30分番組二本分の収録をするためには、順調に進んでも、打ち合わせも含めて二時間ほどかかる。実際には、トークが膨らんで、もっと長くなることも珍しくない。午前中はこれでスケジュールがふさがってしまう。

ゲストの方との顔合わせと打ち合わせを終えて、収録開始。

「そうなんですか?私もあのお店のケーキ、大好きなんですよ。この間も、友達と二人で行ったんですけど、思わずホールケーキ一つ分くらい食べちゃって、叱られちゃいました。えへへ」

終始こんな様子で、にこやかにトークをリードしてゆく。……ちなみに、この≪友達≫というのは他でもない私のことだ。

収録は少し押し気味で、終了したのは昼過ぎだった。

「お疲れ様でしたー」

そう声を掛けて、いちごはスタジオを出る。来た時と同じ通用口を出て、ワゴン車に乗り込んだ。

走り出した車の中で、いちごは電話を掛ける。

「あっ、もしもし、蘭?いま電話、大丈夫?あおいはどんな様子?……うん、うん……そう……。それじゃ、午後もあおいのこと、お願いね」

そう言って電話を切ると、目をつむり、そのまま俯いてしまった。

7

続いて、バラエティ番組の収録のためにテレビ局にやってきた。≪星宮いちご様≫と書かれた楽屋に入り、いちごは奥の椅子に腰かける。テーブルの片隅には、いわゆるロケ弁が置いてあるが、いちごは手を付けようともせず、そのまま突っ伏してしまう。あの、三度の飯よりもご飯が大好きないちごが……。私には、こんないちごをただ見ていることしかできないのが、本当にもどかしい。

コンコン

しばらくして扉がノックされた。いちごは慌てて上半身を起こす。

「はーい、どうぞ」

ガチャッ

入ってきたのは、いちごの弟、らいちだった。

「あれっ、らいち、どうしたの?」

「お母さんがね、これ持っていちごの様子を見てきなさいって。はい、差し入れ」

風呂敷に包まれた重箱をドンとテーブルの上に置く。

「そういえば、朝から何にも食べてなかったよ。ありがとね、らいち」

「それで、お姉ちゃん、あおい姐さんの様子は……」

「うん……さっき蘭に電話してみたけど、まだ意識が戻らないって」

「そう……。あー、できることなら今からあおい姐さんのところに行って僕が代わってあげたいよ」

「もう、らいちったら。そんなの無理に決まってるでしょ」

「そうだけど……」

「今は、あおいのことを信じて、目が覚めるのを待とうよ。ね?」

そう言って、らいちに微笑みかける。こうしてみると、いちごもちゃんとお姉さんなんだな、って思う。

「うん……。でも、ちょっと安心した。お姉ちゃんが意外と元気そうで。もっと落ち込んでるかと思った」

……。

「……そりゃあ私だって、あおいのことが心配で心配で、今すぐにでも病院に飛んでいきたいよ。でもね、こんな時、私たちアイドルにできるのは、いつも通り笑って一生懸命お仕事して、応援してくれているみんなに笑顔を届けることしかないの。たぶん、あおいもそれを望んでると思うしね」

「そっか。……ところでお姉ちゃん、さっきから気になってることがあるんだけど……」

「なあに?」

「この部屋、あおい姐さんの匂いがしない?」

……え?

「え?私には分からないけど……」

「匂いって言っても、本当に匂いがするわけじゃないけどね」

「アイドルのオーラって奴だよね」

「くんくん……」

匂いを嗅ぎながら、らいちはいちごの後ろに回り、一日背後霊をしている私の目の前で立ち止まる。

「ちょうどお姉ちゃんの背中のあたりから、あおい姐さんの匂いがするような……」

「うーん、たぶん、朝に病院に行って、あおいの手を握ってきたからじゃない?」

「そうかなあ、それにしては、新鮮な匂いだけど……」

……恐るべし、星宮らいち。

「あっ、そうだ、僕、この後用事があるから、そろそろ帰らないと」

「そうなんだ。ありがとね、らいち。気を付けて帰ってね」

「うん、お姉ちゃんもね」

そう言って、らいちは帰って行った。 

それを見送ったいちごは、テーブルの方に向き直し、風呂敷包をほどく。重箱の上には、手紙が一通。

「なんだろ……。えーと……」

いちごへ

おいしいご飯は、笑顔の源

笑顔の秘訣は、ちゃんとご飯を食べること

あおいちゃんのためにも、いちごは笑顔でいないとダメよ

ママより

弟の目は誤魔化せても、さすがにりんごさんにはお見通しのようだ。

重箱の蓋を開けると、そこにはクマの顔を模したお稲荷さんが並んでいた。これは、あの時の……。

「うわあ、懐かしい……」

昔、私が初めてミュージックビデオを撮影したときに、いちごとらいちが差し入れに持ってきてくれたのが、このクマのお稲荷さんだった。いちごは、その一つを指でつまんで、一口かじる。

「おいしい……。私、あおいのことで頭がいっぱいで、すっかりご飯を食べるのを忘れていたけど……。うん、そうだよね、こんなときこそ、しっかりとご飯を食べて、元気を出さないとダメだよね」

そうして、一個、また一個とお稲荷さんはいちごの口の中へと消えてゆき、空になった重箱を前に

「ごちそうさま。あー、おいしかった!」

と言ったその顔には、いつも見慣れた、本当のいちごの笑顔が戻ってきたような気がした。

「そうだ、ロケ弁もあったよね、あれも食べちゃおうかな」

もー、いちごったら、いくらなんでも食べ過ぎでしょ。

「あれ、なんかメモが置いてある……。『ロケ弁も食べたら食べすぎなので、僕がもらって帰ります。らいち』……うー、らいちめ、いつの間に……」

 8

いちごがいつもの調子に戻ったおかげか、バラエティ番組の収録は順調に終わり、夕方、いちごと私は今日最後のお仕事があるライブハウスに来ている。ここでいちごはゲストとして一曲歌う予定だ。

出番が近づいたので、いちごはフィッティングルームへと向かう。

「このコーデも久しぶりだな……」

エンジェリーシュガーのベビーピンクフリルコーデに、スターライトティアラ。そっか……。

場内にアナウンスが響く。

「さあ、次はみなさんお待ちかね、星宮いちごさんの登場です!」

わーーーーー

歓声に後押しされて、いちごはステージに上る。

「みなさんこんばんは、星宮いちごです」

そう挨拶すると、目を閉じてしばらく無言のままじっとしている。いちごの話す内容に耳を傾けようと、だんだん会場が静まってゆく。いちごが瞳と口を開く。

「……みなさんもご存じかもしれませんが、私の大切な親友で、今までずっと一緒にアイカツをしてきた仲間、霧矢あおいは、昨日、収録中に転倒して意識を失い、今も病院のベッドで眠っています。これから歌うのはデュエット曲ですが、今日は一人で……でも、私の隣には、いつものようにあおいがいてくれる……そんなつもりで歌います。早く目を覚ますよう願って……。それでは聞いてくださいWake up my music」

MCを終えると同時にいちごがスタンバイしたので、私も自然と、いちごの右側で同じように曲の始まりを待った。

――すう……

頭サビでボーカルから入る曲なので、いちごの歌い出しの微妙なブレスに合わせて動き始める。マスカレードの代表曲であるこの曲を、私たちがカバーしたのは5年前。その時に一度だけ一緒に歌ったきりだというのに、動きが完全に体に染み込んでいる。いつのまにか、私の着ている服も、あの時と同じライムガラスコーデになっていた。

いちごと二人っきりのステージ。すごく久々。でも、まるで毎日一緒に踊っていたかのように、完璧にシンクロしている。だって、いちごと私だもんね。風の中で舞う花びらのように、私たちは軽やかにステージ上を動き回る。もちろん、蘭と三人のソレイユのステージも楽しいけれど、いちごと二人で踊るのは、やっぱり特別。だって、私の原点だもの。

「いくよ、あおい!」

いちごの心の声が流れ込んでくる。次の瞬間、私たちは螺旋を描いて空中に飛び出す。スパイラルフラワーアピール。にわかに湧き上がる観客のどよめき。それはそうでしょう、二人チームでないと出ないアピールをいちご一人で出しているんだもの。時に、アイドルの想いがアイカツシステムの限界を突破する……。私自身、そんな場面を何度も見てきた。今のいちごは、気合も集中力も十分、お昼ご飯もちゃんと食べたし、それに、何より私が横にいるしね、これくらいのことは夕飯前といったところかしら。……そう、今のいちごならね。途中でアメリカに行ったりもしたけれど、あれからずっと、スターライト学園で過ごした5年の日々は、いちごを少しずつ、でも、確実に成長させてきた。明日になれば、もっと成長したいちごが、そこに立っているはず。私には、それが分かる。

いつまでも、こうしていちごと一緒に踊っていたい。次の5年も、その次の5年も、一緒に。……そのためには、私も早く、元の体に戻らないといけないよね……。

9

星宮いちごさんでした!」

大歓声の中、いちごは手を振りながらステージを後にする。

「ふう……」

さすがのいちごも、二人分のステージを一人でやったようなものなので、お疲れのご様子。水を一口飲んで一段落した後、

「お疲れ様でしたー」

と、周囲のスタッフさんたちに声を掛けて、楽屋の方へと戻ってゆく。私もそれに付いていこうとしたその時、何か、ものすごく嫌な予感がして上を見た。これは……。

「いちご、危ない!」

後ろから咄嗟にいちごの腕をぐいっと引っ張った。

「えっ!?」

いちごの体は反転し、こちらに引っ張られた勢いでたたらを踏む。次の瞬間、天井に吊るされていた足場のワイヤーが外れ、直前までいちごがいたところに落っこちてきた。

―ガッシャーーーン!!

「きゃっ!!」

鋭く大きく響く音、いちごの短い悲鳴、もうもうと巻き上がる埃……。

「た、大変だ!」

「大丈夫ですか、星宮さん!?」

……茫然自失、という感じで立ち尽くしているいちご。そのすぐ後ろでは、鉄の塊のような足場が半分床にめり込むようにして落ちていた。いちごは、恐る恐る振り返って後ろを確認する。

「わ、私は大丈夫です……」

そう言うと、そのまま腰砕けになってへたり込む。よかった、無事だった……。

そうしてホッとしたのもつかの間、すうっと意識が遠のくような感覚を覚える。頭を振ってなんとか持ち直したものの、下を見ると、私の足が消えかけてきている。何これ……。

どうやら、いちごの腕を掴み、そして引っ張るという行為は、この幽体からものすごくたくさんのエネルギーを奪い去ってしまったようだ。そして、その引き換えとして、幽体が消えかかっている。……楽観的に考えるなら、これは自分の体に戻れる兆候かもしれない。でも、悲観的に考えるなら……。嫌っ、私、もっともっと、いちごと一緒に歌いたい……いちごと一緒に踊りたいよ……。

でも……。ごめんね、いちご……これで最後かもしれない……。そう思いながら、床にへたり込んでいるいちごに抱きついた。すると、消えかけていた足の色が少しだけ濃くなった。……でも、まだあまり安定していない。

「いちご、助けて……」

思わず、そうつぶやいた。

「あおい……!!」

今までへたり込んでいたいちごが、急に立ち上がる。

「いけない、私、あおいのところに戻らなきゃ!」

「ほ、星宮さん!?」

驚くスタッフさんたちを尻目に、いちごは走り出した。私は、その背中にしがみつくようにして付いて行った。

10

「急いで病院までお願いします!」

ワゴン車に戻ったいちごは、運転席に向かってそう言って急かす。車が動き出すと、いちごは電話を掛け始めた。

「もしもし、蘭?あおいは?……そう……。あのね、今から私、急いでそっちに戻るから、病院の人にお願いして……うん、それは分かっているけど、そこを何とかね……お願い、蘭!」

暗くなった街の中をワゴン車は走ってゆく。多分、そろそろ面会時間が終わるので、帰ろうとしている蘭を捕まえて、無理を承知でお願いしているのだろう。

「……うん、うん……よかった……。じゃあ、もう少ししたらそっちに着くから……」

私は、いちごに寄り沿うようにして座っていた。

いちご、あったかい……。

すっかり弱っていた私には、いちごの体温が心地よく感じられた。

そうして、短いような、長いような、そんな時間を揺られた後、ワゴン車は病院の隣のビルからスロープを下って地下へと入り、少し走って通用口の前へと止まる。いちごがスライドドアを開けると、守衛さんが出てきた。

「星宮さん、話は聞いてます。どうぞお入りください」

「ありがとうございます」

いちごは早歩きでエレベーターへと向かい、ボタンを押す。扉が開いたので、乗り込んで最上階のボタンを押す。いちごは扉の前に立ち、頭上のランプをじっと見て、微動だにしない。ランプは朝とは逆に、左から右へと順番に移ってゆく。

最上階に着いて、扉が開いた瞬間、いちごは走り出した。私も、いちごにおぶさるように抱きついて、それに付いてゆく。

「ほ、星宮さん!?」

ナースセンターにいた看護師さんが驚いて声を上げるが、お構いなしにいちごは走り抜け、私の病室の前で止まり、扉を開ける。

「あおい!」

部屋の中にいた蘭がこちらを見る。

「いちごか。どうした、そんなに慌てて……」

そのまま病室へと入ってゆき、ベッドの横に座り込む。いちごは、私の右手を、自分の両手で包み込むようにして握り、自分の胸の前に引き寄せて、祈るような姿勢で目をつぶった。

いちごの気持ちが直接流れ込んでくる。

「あおい……今度は私があおいの手を引っ張る番だよ……。あおい、目を覚まして……お願い……」

すうっと、私の意識がいちごの中に吸い込まれる……そんな感覚を覚えた。

………………

…………

……

風景がぼんやりとしている。周りからは雑踏のような音が聞こえる。どこだろう、ここ……。

だんだんと目の焦点が定まり、周りが見えてきた。ここは……夏祭り?

「ねえ、こっち!」

急に声を掛けられ、手を引っ張られる。

「一緒に踊ろうよ。さっきの踊り、まるでアイドルみたいだったよ!」

そこには、幼いあの日のいちごの笑顔があった。

そして、次第に強くなる白い光の中に、その笑顔は消えていった。

……

…………

………………

次の瞬間、意識が急にはっきりとして、右手に暖かさを感じた。かすかに感じる頭痛。……目を閉じたまま、何て言おうか少しだけ考えてから、目を開けた。

「おはよう、いちご」

11

私が目を覚ましたので、蘭のナースコールによりお医者さんがやってきて、続いてパパとママもやってきた。でも、ここにいちごの姿はない。……さっき病院の廊下を猛ダッシュしたことで、こわーいおばさんの看護師長に襟首を掴まれて別室に引っ張られていってしまった。

お医者さんによると、今のところ、脳内出血や脊髄損傷のような深刻な症状は見られないため、重度の脳震盪らしい。たまたま打ち付けたのが左の側頭部だったので、サイドテールがクッションになって致命傷にはならなかったみたい。シュシュがなければ即死だった……かも。でも、脳震盪で一日以上も意識が戻らないことは珍しいし、いずれにしても頭を強く打っているので、半月ほど入院して安静と経過観察が必要なこと、そして、衝撃で首の靭帯が伸びているので、むち打ちのような症状が出る可能性がある、ということだった。

お医者さんと両親は手続きをするために出て行った。それと入れ替わりで、いちごが戻ってきた。

「ううー……あおいー、蘭ー」

どうやらこっぴどく叱られたらしい。

「こってり絞られたみたいだな」

「病院の廊下でダッシュなんてするからよ」

「ま、当然だな」

「えー、あおいも蘭もひどいよお」

「あはは、嘘々。……いちごと蘭、今日一日本当にお疲れさま」

「まあ、私たちにはまだもう一仕事残ってるけどな」

「そっか……」

この後二人は、私の代わりに、外に集まっている報道陣に対して会見を開いてくれるらしい。

「じゃあ、二人にはもう一頑張り……って、いちご!?」

いつのまにかベッド脇に座り込んで布団に頭を乗せて、いちごはすうすうと寝息を立てていた。

「……昨日あんまり寝てなかったみたいだしな、ひどく疲れているようだから、会見はあたし一人でやってくるよ。それが終わって私が戻ってくるまで、そのまま寝かせておいてやろう」

「うん、じゃあ、蘭、お願いね」

「ああ、行ってくる」

ぱたん。

病室にはいちごと私、二人だけが残された。

「いちご……また一緒に踊ろうね」